「仏原」 ほとけのはら
銕仙会定期公演<11月>の能「仏原」で清水寛二がシテを勤めます。
当日の舞台をより楽しんでいただくため、特集ページを開設いたしました。
ぜひお誘い合わせの上、会場にお越し下さい。
当日の舞台をより楽しんでいただくため、特集ページを開設いたしました。
ぜひお誘い合わせの上、会場にお越し下さい。
仏原 ほとけのはら
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秋深い加賀の国、仏原を舞台として
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公演詳細 |
銕仙会定期公演〈11月〉
会場:宝生能楽堂(全席指定) 日時:2014年11月14日(金) 午後6時開演(午後5時30分開場)
公式WEBページ http://www.tessen.org/schedule/regular/2014reg11 お申込み・お問合せ 銕仙会(てっせんかい) 電話:03-3401-2285(平日10-17時) WEBサイト:http://www.tessen.org ウェブ予約も可能です |
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しみかんの
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初々しい『仏原』に乞うご期待!new笛の藤田貴寛君(私と同年の藤田次郎氏の息子さん)に、「『仏原』は初めて?」と聞いてみたら、以前に一回吹いているそう。彼は高校時代英国に留学していた!
小鼓の鵜澤洋太郎君は初役とのこと。打っている数からすれば、彼はもうずいぶんベテランだろうにね。 大鼓の亀井洋佑君(亀井実さんの息子さん)も初めてだろうか。亀井忠雄先生や広忠君に鍛えられてくるのだろうね。 間狂言の山本則重君も初役だと言っていた。彼は今度結婚式! 私も初役ですから、初々しいみなさんでの『仏原』に乞うご期待! 三本立て!これは映画館のように、「三本立て」!というべきですね。
一晩にこれだけ趣向の違った「三本」の芝居を見れるのは、「能と狂言」だから。 奇想天外!『車増』はなかなか奇想天外なお話で、例えば嵐寛寿郎とか、坂東妻三郎でやるとかしてもいいかな。
今回はシテの天狗を小早川修氏、ワキの車増を御厨誠吾氏。 狂言『右近左近(おこさこ)』
しばらくこの『右近左近』は見ていない気がしていたが、なんと銕仙会の定期公演で出るのは1970年以来とか。
かつて、かの茂山千作さんのあたり芸だった。あらすじに書けない・・・があって、何とも面白かった。 さて、泰太郎氏則孝氏兄弟の『右近左近』に期待。 シテ(右近):山本泰太郎 アド(妻):山本則孝
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曲目研究会 ご報告 |
10月30日、銕仙会能楽研修所にて『仏原』曲目研究会を開催しました。
能楽研究者の表きよし先生と、国文学者の石丸晶子先生をお迎えし、20名程のみなさんにご参加いただいて、『平家物語』、謡曲『仏原』、史実の仏御前についてお話を伺いました。 |
表きよし
能楽研究者 国士舘大学21世紀アジア学部教授 オフィスしみかん「世阿弥の伝書を読む」講座講師、銕仙会公開講座講師 |
表先生からは平家物語にある平清盛と妓王、仏御前のエピソードの紹介と、謡曲『仏原』の背景や内容についてお話していただきました。
『平家物語』巻第一「妓王」 あらすじ 加賀の国の出身である仏御前は、都へ上って白拍子となり、舞の上手として評判を得た。 しかし時の権力者である平清盛は妓王を寵愛していたため、仏御前に声が掛かることはなく、自ら邸へ押掛けたが、追い返されてしまう。 しかし妓王のとりなしで清盛に会うことが叶い、心ならずも妓王を追出す形で清盛の寵愛を受けることになった。妓王は泣く泣く清盛の屋敷を去ったが、後に清盛は仏御前の退屈を紛らわすために、追放した妓王を屋敷へ呼びつけ、芸を見せるように強要した。仕方なく屋敷に上がったものの、繰返しこのようなことがあってはたまらないと、妓王は妹、母と共に出家して嵯峨野に庵を結んだ。 ある日庵を尼姿になった仏御前が訪ねて来た。妓王に取りなしにも関わらず追い出してしまったことを悔い、また自分もいずれ同じように追い出される身の上であると思い、清盛の元を逃れて出家したという。仏御前の行いに恨む心も消えた妓王は、仏御前こそ仏道の師であると仰いで、四人で共に暮らし、皆極楽往生を遂げた。 謡曲『仏原』 作者について 世阿弥作と考えられたこともあったが、世阿弥の伝書の中に記述がないこと、最古の上演記録が1400年代半ばであることから世阿弥よりも後の世代の作ではないかとされていた。 しかし十数年前に、世阿弥が生存中である応永34年(1427年)の上演記録が発見されたため、現在は世阿弥周辺の人物(息子の元雅や娘婿の金春禅竹)の作であろうと考えられている。 あらすじ 加賀の仏原を、白山に修行に向かう途中の旅の僧が訪れる。草堂で一夜を明かそうとすると里女が現れ、僧に仏御前の供養を頼み、平清盛と妓王、仏御前の事を物語る。あなたは誰なのかと僧が問うと、女は仏御前であることをほのめかして姿を消す。 僧が仏御前を丁寧に弔っていると、やがて仏御前が現れ弔いに感謝し、美しく舞を舞う。そして仏の舞とは何かを語って姿を消す。 解説
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石丸晶子
国文学者 東京経済大学名誉教授 著書に『式子内親王-面影びとは法然』、短編小説集『月影の使者』など |
石丸先生からは史実について、仏原に調査に行かれた体験も交えてお話いただきました。
史実での仏御前の姿 平家物語では仏御前は嵯峨野で亡くなったことになっているが、史実は違っている。 祇王寺には妓王、妓女、刀自の墓碑と清盛の供養塔があるが、仏御前のものはない。 仏御前は妓王の庵で共に暮らすことになったが、妊娠していたことがわかり、尼寺にはいられないため生国である加賀仏原に帰ることとなった。 京から美濃路を通って、途中白山の麓、木滑(きなめり)という村のはずれで産気づく。現在でも仏御前が出産時にすがりついた巨石が祀られている。赤子は二週間ほどで死んでしまった。 仏原に辿り着いた仏御前は、草庵を結んで念仏に明け暮れた。 都一の白拍子であり、清盛の愛人であった仏御前は故郷では目立つ存在であった。村の男達は法文を聞くためと称して連日通い詰めた。 それを疎ましくおもった村の女房たちは、あるとき村はずれに仏御前を呼び出し、機織り道具の杼(ひ)で殴り殺してしまった。仏御前21歳のときである。その場所には「墓地」という地名がついており、たたりをおそれてか墓所は「祝いこめたる宮」と呼ばれている。 コメント
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史実の仏御前は、無惨な最期を遂げていたようです。しかし謡曲ではその名の通り成仏を遂げた様子で現れて仏の教えを語り舞います。
こういった背景を踏まえて清水寛二がどのように演じるのか。研究会参加者の皆様から、楽しみにしているとコメントをいただきました。 11月14日(金)宝生能楽堂にて、どうぞご期待下さい! |