清水と小田幸子さんの対談が「死者の声としての<能>」と題して能楽タイムズ8月号(能楽書林発行)に掲載されました。この対談は、能楽書林に住んだことがあり、自身が経験した原爆の惨状を描いた「夏の花」を執筆した原民喜(1905-1951)のことをタイムズ編集部とお話したことががきっかけとなり、急遽実現したものです。
能楽書林編集部の許可を頂き、本文の中から「長崎の聖母」海外公演についての部分を紹介いたします。能楽タイムズはこちらから購入が可能です。
‐対談目次-
「長崎の聖母」海外公演
浦上天主堂で
反核・平和
能に惹かれて
能の力、謡の力
様々な演劇にも
舞台の効果を
能楽書林編集部の許可を頂き、本文の中から「長崎の聖母」海外公演についての部分を紹介いたします。能楽タイムズはこちらから購入が可能です。
‐対談目次-
「長崎の聖母」海外公演
浦上天主堂で
反核・平和
能に惹かれて
能の力、謡の力
様々な演劇にも
舞台の効果を
死者の声としての〈能〉
清水寛二
小田幸子
「長崎の聖母」海外公演
小田 本日は銕仙会の清水寛二さんをお招きしています。早速ですが、この五月末、アメリカで上演した「長崎の聖母」について伺いたいと思います。そもそも、この公演に到るきっかけは何だったのでしょう。
清水 今年は戦後七十年の節目の年ですね。それに関連して、核問題については、国連でNPT会議(核拡散防止条約再検討会議)というのが五年ごとに行われているのですが、ここでいくら原爆のことを訴えてもアメリカ市民にはなかなか浸透しませんし、報道もしてもらえません。そういうこともありまして、議場で悲惨さを訴えるだけでなく、日本の、あるいは長崎の文化を交えつつ、原爆のことを伝えられないかということで、長崎の方々から上演を依頼されました。ニューヨークのジャパンソサエティ主催で三公演(同ホール)、その後ボストンのJREX主催で一公演(昭和女子大ボストン校にて)致しました。
小田 公演後の反応は、いかがでしたか。
清水 ロイターで動画や観客へのインタビュー映像を流してくれるなど、これまでに較べ効果はありました。観客からも、「能がわかりやすかった」、「人々を悼む気持がよくわかった」といった声が多かったと聞いています。ニューヨークでは九・一一が起きていますので、その悲劇を重ね合わせる人もいらっしゃいましたね。
小田 お客さんは現地の方が多かったのでしょうか。
清水 大部分はアメリカ人でした。無論、あちらに住んでいる日本人も観に来てくださいました。
小田 ニューヨークでは「長崎の聖母」とともに、「清経」も上演したということですが、二番ともシテは清水さんでした。
清水 ジャパンソサエティの依頼で二曲を致しました。どちらの曲とも〈戦争を考える〉という共通テーマがあります。
小田 「長崎の聖母」は多田富雄さんの新作能ですが、清水さんは、多田さんが晩年に書かれた作品のシテを多く演じていらっしゃいます。「沖縄残月記」「横浜三時空」……最初は「一石仙人」でしたでしょうか。
清水 「一石仙人」は、初演は横浜のモーターサイクル・ケンタウロス主催で津村禮次郎さんが演じられて、私は地謡で出ていたんです。再演もあって、その次に多田先生の故郷結城でやるという時に、初演の演出をされた写真家の森田拾史郎さんから声が掛かりまして、シテと演出を勤めました。これが多田先生の作品を演じた最初です。
小田 多田さんとお会いしたのもこの時がはじめてですか?
清水 多田先生には以前、観世榮夫先生が「望恨歌」をなさった時にお目に掛かってはいました。その後、榮夫先生は多田先生に広島の原爆をテーマに能を書いてほしいと依頼されたんですね。それが「原爆忌」になりました。
小田 それは初耳です。
清水 その頃私の命題は「長崎の能」を作ることでして……というのも、長崎に諏訪神社という「おくんち」のお祭りで有名な神社があるんですが、ここで、江戸時代に「諏訪」という能をやっていたんです。その後舞台が焼失するなどして長いこと途切れていたんですが、とある経緯で私がその復曲のお手伝いをすることになりました。初演は国立能楽堂で、その後、長崎のブリックホールの柿落や当の諏訪神社でも演じたりしていたのですが、ある時、制作を担当された方から「『諏訪』の復曲は良かったけど、長崎という土地で、原爆で亡くなられた人たちを慰霊する能はできませんか」と言われましてね。そんな折に榮夫先生が広島の能を多田先生に頼んだというのを伺いましたので、先ほど話しました結城の公演の相談の時「長崎の能もいかがですか」とお願いしました。そして、長崎の純心女子学園が原爆でやられた時の「純女学徒隊」の手記などから起こされて、カトリックの浦上天主堂を舞台にした「長崎の聖母」という能ができたのです。
(本文より抜粋)
清水寛二
小田幸子
「長崎の聖母」海外公演
小田 本日は銕仙会の清水寛二さんをお招きしています。早速ですが、この五月末、アメリカで上演した「長崎の聖母」について伺いたいと思います。そもそも、この公演に到るきっかけは何だったのでしょう。
清水 今年は戦後七十年の節目の年ですね。それに関連して、核問題については、国連でNPT会議(核拡散防止条約再検討会議)というのが五年ごとに行われているのですが、ここでいくら原爆のことを訴えてもアメリカ市民にはなかなか浸透しませんし、報道もしてもらえません。そういうこともありまして、議場で悲惨さを訴えるだけでなく、日本の、あるいは長崎の文化を交えつつ、原爆のことを伝えられないかということで、長崎の方々から上演を依頼されました。ニューヨークのジャパンソサエティ主催で三公演(同ホール)、その後ボストンのJREX主催で一公演(昭和女子大ボストン校にて)致しました。
小田 公演後の反応は、いかがでしたか。
清水 ロイターで動画や観客へのインタビュー映像を流してくれるなど、これまでに較べ効果はありました。観客からも、「能がわかりやすかった」、「人々を悼む気持がよくわかった」といった声が多かったと聞いています。ニューヨークでは九・一一が起きていますので、その悲劇を重ね合わせる人もいらっしゃいましたね。
小田 お客さんは現地の方が多かったのでしょうか。
清水 大部分はアメリカ人でした。無論、あちらに住んでいる日本人も観に来てくださいました。
小田 ニューヨークでは「長崎の聖母」とともに、「清経」も上演したということですが、二番ともシテは清水さんでした。
清水 ジャパンソサエティの依頼で二曲を致しました。どちらの曲とも〈戦争を考える〉という共通テーマがあります。
小田 「長崎の聖母」は多田富雄さんの新作能ですが、清水さんは、多田さんが晩年に書かれた作品のシテを多く演じていらっしゃいます。「沖縄残月記」「横浜三時空」……最初は「一石仙人」でしたでしょうか。
清水 「一石仙人」は、初演は横浜のモーターサイクル・ケンタウロス主催で津村禮次郎さんが演じられて、私は地謡で出ていたんです。再演もあって、その次に多田先生の故郷結城でやるという時に、初演の演出をされた写真家の森田拾史郎さんから声が掛かりまして、シテと演出を勤めました。これが多田先生の作品を演じた最初です。
小田 多田さんとお会いしたのもこの時がはじめてですか?
清水 多田先生には以前、観世榮夫先生が「望恨歌」をなさった時にお目に掛かってはいました。その後、榮夫先生は多田先生に広島の原爆をテーマに能を書いてほしいと依頼されたんですね。それが「原爆忌」になりました。
小田 それは初耳です。
清水 その頃私の命題は「長崎の能」を作ることでして……というのも、長崎に諏訪神社という「おくんち」のお祭りで有名な神社があるんですが、ここで、江戸時代に「諏訪」という能をやっていたんです。その後舞台が焼失するなどして長いこと途切れていたんですが、とある経緯で私がその復曲のお手伝いをすることになりました。初演は国立能楽堂で、その後、長崎のブリックホールの柿落や当の諏訪神社でも演じたりしていたのですが、ある時、制作を担当された方から「『諏訪』の復曲は良かったけど、長崎という土地で、原爆で亡くなられた人たちを慰霊する能はできませんか」と言われましてね。そんな折に榮夫先生が広島の能を多田先生に頼んだというのを伺いましたので、先ほど話しました結城の公演の相談の時「長崎の能もいかがですか」とお願いしました。そして、長崎の純心女子学園が原爆でやられた時の「純女学徒隊」の手記などから起こされて、カトリックの浦上天主堂を舞台にした「長崎の聖母」という能ができたのです。
(本文より抜粋)