第2回青山実験工房が来月となりました。
今年は銕仙会の観世寿夫没後40年にあたり、プログラムはそれに寄せたものとなっております。
更に公演に先立ち、湯浅譲二さんが1979年ー観世寿夫が亡くなった翌年ーの銕仙会機関紙「銕仙」に寄稿した文章を公開できることとなりました。
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今年は銕仙会の観世寿夫没後40年にあたり、プログラムはそれに寄せたものとなっております。
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湯浅譲二
雪は降る
寿夫さんは、本当に昭和の世阿弥となる人であったと思われてならない。
つまり、寿夫さんは、言と行、思想と技術を兼ねそなえていて、幽玄、言いかえれば大悟の中にあって、しかも、日常の中の非日常と言おうか、もう一つの世界を観るポエティックな眼を持った人だったと、心から私は思う。そんな寿夫さんは、私にとっていつでも共に仕事をしようと思う、数少ない芸術家の一人だった。
彼とは、舞台の仕事だけではなく、能の音楽の研究も含めて、やり残した仕事が沢山あるように思われてならない。それはただ、故人を惜しむという情だけでなく、そうした〝おもい〟が、あたかも葵の上の〝思い知らずや〟という一種の怨念のようにさえなって残ってをり、残念という言葉の本来の意味を噛みしめさせられているのである。
一九五五年、武智鉄二さんの円形劇場でのシェーンベルクの「ピエロ、リュネール」と、三島由紀夫の近代能楽集「綾の鼓」の上演が寿夫さんと私との初めての仕事だった。
以来、一九六〇年、当時新しく完成した草月会館の一室で、寿夫さんのレクチュアを通して、能の音楽を、技法と思想の両面から体系的に研究しようとする会もあった。そして私にとって最初のテープ音楽「葵の上」、又NHKで制作し、イタリア賞グランプリを獲得した「コメット・イケア」など、寿夫さんとの仕事は私の中で記憶の一里塚となるものばかりである。
中でも花柳照奈さんの舞踊、三好達治の詩によって寿夫さんの謡と私の音楽で作った「雪は降る」(芸術祭賞)では、寿夫さんの凄絶な〝うたい〟に僕はただ瞠目するばかりだった。後半を上げればそれは、
海にも行かな 野に行かな
かえるべもなき 身となりぬ
すぎこしかたな かえりみつ
わがかたの上に 雪は降る
かかる良き日を いつよりか
われの死ぬ日と ねがいてし
という詩だった。私は寿夫さんの繊細でいて、強靭な、深みのある作曲とうたいに感動した。それはまさに〝無位の位〟というべきものだった。ただ惜しむらくは、この現世での仕事を、生を、充分に生きてのちに、この詩のような幽境に旅立ってほしかった。
寿夫さんは、「九位次第」で言えば上三位、銀椀裏に雪を積み、夜半に日頭を観ながら、みまかられたと私は信じている。
今はただ、尊敬と哀惜の念と共に私の心に生きる寿夫さんである。
これまでも、栄夫さん、静夫さんとも寿夫さん同様に仕事をしてきたが、ちょうど今、ギリシャで開かれる国際現代音楽祭で予定されている、アポロ神殿、デルフィの遺跡での特別イヴェントを上演するために、栄夫さんにお願いして、出発する直前である。
寿夫さんに喜んでいただける仕事になればと願っている。
九月三日(作曲家)
※銕仙会の許可を頂いて掲載しております
雪は降る
寿夫さんは、本当に昭和の世阿弥となる人であったと思われてならない。
つまり、寿夫さんは、言と行、思想と技術を兼ねそなえていて、幽玄、言いかえれば大悟の中にあって、しかも、日常の中の非日常と言おうか、もう一つの世界を観るポエティックな眼を持った人だったと、心から私は思う。そんな寿夫さんは、私にとっていつでも共に仕事をしようと思う、数少ない芸術家の一人だった。
彼とは、舞台の仕事だけではなく、能の音楽の研究も含めて、やり残した仕事が沢山あるように思われてならない。それはただ、故人を惜しむという情だけでなく、そうした〝おもい〟が、あたかも葵の上の〝思い知らずや〟という一種の怨念のようにさえなって残ってをり、残念という言葉の本来の意味を噛みしめさせられているのである。
一九五五年、武智鉄二さんの円形劇場でのシェーンベルクの「ピエロ、リュネール」と、三島由紀夫の近代能楽集「綾の鼓」の上演が寿夫さんと私との初めての仕事だった。
以来、一九六〇年、当時新しく完成した草月会館の一室で、寿夫さんのレクチュアを通して、能の音楽を、技法と思想の両面から体系的に研究しようとする会もあった。そして私にとって最初のテープ音楽「葵の上」、又NHKで制作し、イタリア賞グランプリを獲得した「コメット・イケア」など、寿夫さんとの仕事は私の中で記憶の一里塚となるものばかりである。
中でも花柳照奈さんの舞踊、三好達治の詩によって寿夫さんの謡と私の音楽で作った「雪は降る」(芸術祭賞)では、寿夫さんの凄絶な〝うたい〟に僕はただ瞠目するばかりだった。後半を上げればそれは、
海にも行かな 野に行かな
かえるべもなき 身となりぬ
すぎこしかたな かえりみつ
わがかたの上に 雪は降る
かかる良き日を いつよりか
われの死ぬ日と ねがいてし
という詩だった。私は寿夫さんの繊細でいて、強靭な、深みのある作曲とうたいに感動した。それはまさに〝無位の位〟というべきものだった。ただ惜しむらくは、この現世での仕事を、生を、充分に生きてのちに、この詩のような幽境に旅立ってほしかった。
寿夫さんは、「九位次第」で言えば上三位、銀椀裏に雪を積み、夜半に日頭を観ながら、みまかられたと私は信じている。
今はただ、尊敬と哀惜の念と共に私の心に生きる寿夫さんである。
これまでも、栄夫さん、静夫さんとも寿夫さん同様に仕事をしてきたが、ちょうど今、ギリシャで開かれる国際現代音楽祭で予定されている、アポロ神殿、デルフィの遺跡での特別イヴェントを上演するために、栄夫さんにお願いして、出発する直前である。
寿夫さんに喜んでいただける仕事になればと願っている。
九月三日(作曲家)
※銕仙会の許可を頂いて掲載しております